2025年8月10日日曜日

健康ガイドライン(Level 4)

<背景と目的>
人は、栄養、すなわちエネルギーが枯渇すると死亡します。最後、人間が生命活動、その人にとっての時間を停止する時には必ず、少なくとも局所的、一時的に栄養失調を経験します。従って、生死を考える時もエネルギーの問題が根本にありますから、健康に健全に生きることを考える場合においても、エネルギーの問題があります。エネルギーとはそもそも何でしょうか?それは「分布」です。その分布がより確率的にそうなりにくいものが一般的にエネルギーが高いです。では、そのエネルギーはどこから来たのでしょうか?それはおそらく宇宙の始まりです。ビックバンの時に単位体積あたり、最も分布が凝集し、エネルギーが発生しました。そのビックバンの前は何なのかはわかりません。しかし、ビックバンこそがエネルギー発生の源泉であり、そこからずっと宇宙全体としてエネルギーは総体的には保存されています。そのビックバンの一番あり得ない分布から、より確率的に高くなるように分布がずっと今まで、これからも選択されていきます。その確率が最大になるまで。最大になった時、時間は止まります。時間とは分布がより確率が高くなるように選択されていくプロセスに他なりません。局所的には逆の事も当然生じますが、宇宙全体で見れば、そうなるように系は調整されていきます。関係性でもって。これは比較的あらゆるスケールで適用可能です。人でもです。人間社会でもです。地球でもです。受精というビックバンが起こって、そこから死という時間が停止するまでの一生は、小宇宙ともいえるでしょう。宇宙もはるかに大きなスケールでその運命をたどります。赤ちゃんの物質的な分布はありえないです。赤ちゃんはエネルギーに満ちています。そこから、人全体として、物質の関係性としてより高くなるように、物質的に連携性を失いバラバラになるように調整されていきます。それが老化です。従って、生涯の健康を定義する事は、その分布の選択の過程を最適化する事です。そのためには日常生活1日1日で「自然発生的にあり得ない事」すなわち奇跡を起こし続けなければなりません。自分を律する。すなわち自律的な生活です。私たちが日常生活のイベントごと、どのような選択をするか?その選択をより健康的なものに変えていかなくてはなりません。それは毎日続けなければなりません。一生涯続けなければなりません。そうすると今まで地球の人類は早計で1000億人程度いるとすると、1000億分の1でも起こりえなかったことが現実的な確率で生じる可能性が出てきます。本当に120年間の毎日の各イベントごとを自然発生的にはあり得ない自律した選択をしつづければです。奇跡は統計物理学的に証明できます。健康ガイドラインは日常生活に向き合うもので、科学的に合理性がある形で具体的な健康の為の選択肢を提供します。完全に選択肢を限定しません。個人が工夫する余地、創造の余白を残します。それそのものも健康の為の選択肢です。健康とは体の健康だけではありません。脳、心身の健康もあります。脳とは関係性の極値です。従って、局所的には大宇宙の中で「あり得ない事」が起こります。それは脳が神経細胞という関係性を持つからです。人間社会という関係性があるからです。従って、関係性は自然の確率分布過程に抗い、奇跡を起こします。従って、体の健康を考える事と、心と脳の健康を考える事は不可分の部分も多くありますが、ある程度の独立性を有します。脳は特別なのです。とりわけ人間では。その脳の健康は、関係性を考える事です。同性、異性との関係性もそうです。そうした関係性は学校、就労、趣味など社会生活のあらゆる場面で生じます。従って、その関係性をどのように幸せのために「ありえなくするか」それも考えなくてはなりません。健康ガイドラインは、心身の健康です。心、技、体全てです。それはおそらく実現できるでしょう。そういう観点において、地球環境は人新世、アントロポセンにおいて今までとは異なる運命をたどり、それは決して不可逆で止められないものだとしても、希望的です。破滅的でありません。今よりも20年後の私は今よりも心身が健康になります。それはこれを読んだ全ての人がそうなります。私たちは気づくはずです。その心身の健康こそが最も大切なことだと。分布、関係性、時間、その根源的な普遍則である確率を理解する事で、今までとは違う本質的な対策ができるようになります。それはあらゆるスケールです。地球の健康とは何か?宇宙という時間の流れの中で定義できるようになる。

<衣の健康>
 下記、現代社会に対して様々な問題提起、問いかけがあります。服は本当に必要でしょうか?家で服を着る必要があるでしょうか?何のために服を着るのでしょうか?服と肌は原理的に合わないのではないでしょうか?植物の葉をベースにして服は作れないのでしょうか?もし、作れるなら、水にぬれても、その服の洗濯は必要ないのではないでしょうか?すぐに交換が必要なら、パック料金で、継続的に家に届ければいいのではないでしょうか?あらゆる窓、玄関、トイレの扉、お風呂のそれを開けた開放的な空間で、夜、電気もつけずに部屋で完全に裸体になった時、あなたは果たしてどのような感覚になるでしょうか?夜、寝苦しいのは服、布団への体からの蓄熱、あるいは空気が停滞しているせいではないでしょうか?体が臭い(臭く感じる)のはその服のせいではないでしょうか?本当に自分の体が臭いかどうかは全身、裸になればわかることではないでしょうか?夜明け前、早朝人が少ない時間帯に男性が外に出て散歩する時に夏場、本当に上半身の服は必要でしょうか?服を脱いで運動で鍛えられた身体を身近に感じ、部屋が整然としていたら、常に、ストレッチや筋トレを外にいるような感覚で自重でしたくなりませんか?そうすると生活はより健康的になるのではないでしょうか?部屋に綺麗なミネラルウォーターを巻くことも可能です。それは床が人工的な材料だからできないことです。木のフローリングならその水を嫌わないでしょう。水を撒いて、タオル、あるいは自分の腕でふいたなら、より部屋は綺麗になるのではないでしょうか?床が水にぬれていても、体が裸なら、それが気持ちよいのではないでしょうか?これらの生活はより経済的、環境効率が良く持続可能ではないでしょうか?服も必要最小限。照明もつけない。飲み物は基本、ミネラルウォーター。エアコンもつけない。あなたは今日から、衣食住を変えることが可能です。この衣食住の健康情報を元に、それぞれの生活の中で、先入観、固定観念、常識にとらわれず、勇気を持って変えたなら、あなたの心身は健康になります。ストレスレスになります。気持ちよくなります。体はより引き締まります。自分の体を常に見ることによって体をより美しくしようとする気持ちが芽生えます。これは、特別な場所は必要ありません。アパートの一室でこうした環境を整えることは可能です。お金は必要ありません。これを読んだ、今、この瞬間から劇的に変えることが可能です。あなたにその勇気と決断力があるなら。部屋を全開放にして、裸になったり、上半身裸で自然の中を疾走すると実感できます。皮膚の感覚入力が衣類の絶え間ない摩擦に障害されることなく、普段は覆われている上半身全体の感覚入力が自然で多様になるため、慣れないうちには世界観が変わるほど衝撃があります。衣類で本来の人、動物としての感覚が歪められていることに気づきます。ボディーラインに自信がある、あるいはそれを段階的に良くしたい男性は、できるだけ服を着ない。上半身だけなら、外でも人が少ないところを選択すれば、問題ありません。女性も露出の多い服をファッションで着る場合があります。裸になると動物的な感覚が戻ってくるので。臭くもならないし、飲食の際に服にシミもつかないし、余計な洗濯ものも生まれない。服が当たり前という先入観を払拭し、その弊害についても目を向けるべきです。



<食の健康>


<住の健康>
 衣食住というのは基本的な(現代的)生活の事です。これを満たされないと生きていくのがしんどい。多くの人は、この住については、現代の中で「パッケージ化」されたものを当たり前のものとして認識しているのではないかと思います。医療と同様に現代の都合で形成された経済エコシステムの中に先入観、固定観念の元に飲み込まれるということです。私の周りの住居を見ていると、部屋のカーテンを全開に開け、部屋の中をさらけ出している人は皆無です。それはなぜでしょうか?住というのはプライベート空間であり、それは外界とは隔離した閉鎖空間でなくてはならないのでしょうか?住の健康を考えるにあたり、その先入観、固定観念は確実に間違いです。元々、人は外に近い環境で暮らしていました。それが長く続きました。従って、住環境というのを公的な空間、すなわち外、自然と切り離すのではなく、如何に連続的で、継ぎ目をなくす(シームレス)にすることが、実は、皆さんが知らず知らずに抱えているダークストレスを軽減させることにつながります。勇気を持って、カーテンを開け、あるいは外し、窓を網戸ではなく、開放し、玄関を開け、最大限、外との連続性を保てばがわかる事です。部屋の中の環境の全てが変わります。空気の質、臭い、音、温度、湿度全てがより自然になります。確かに夏場は暑い、冬場は寒い。しかし、これらは急に変わらず段階的に変わります。常に部屋を開放し、出来るだけ自分の肌を露出して過ごせば、漸次的に変わる温度に人の温度感覚は少しずつ適応していきます。また、生活の工夫として、温度調整を補助してくれる普遍的な物質があります。それが、綺麗な水です。夏場は、部屋の環境が暑くなると冷えた水がより美味しく感じます。その綺麗なミネラルウォーターは顔、肌を含めた全身に塗布することができます。それで冷えを全身で感じることができます。冬場は、ポットで温めた水が全身を温めてくれます。こうした温度を調整するのは今ではエアコンが当たり前ですが、エアコン環境に長時間いることでストレスに感じる人はいないでしょうか?もっと自然な方法で頑張って解消する事のほうがよりストレスレスではないでしょうか?そもそも、日本にとって四季の意義は何でしょうか?夏場は暑くて当たり前ではないでしょうか?冬場は寒くてそうではないでしょうか?それを乗り切ることが日本人のアイデンティティー(存在意義)ではないでしょうか?その日本人としての野性的な感性、感覚が、エアコンという温度を一定にする機器によってゆがめられませんか?
 住環境の外との接続性を高める事、窓、扉を開放する事によって、電気照明が必要なくなります。昼間は明るく、夜は暗いのです。夜が暗くて、色んなものが見えにくくて当たり前です。頑張って、暗い中で見る事が、眼の健康に貢献しないといえるでしょうか?そうした自然の昼夜のサイクルは睡眠にどう影響を与えるでしょうか?あるいは、昼間の人工的な照明と、あらゆる窓、扉を開けたときに部屋にふりそそぐ太陽光は自然照明とどのように質感として異なるでしょうか?照明には光の指向角が存在します。太陽光で部屋を明るくするとより全体が均一に明るくなり、ランダムに雲などによって日陰になり、少し暗くなったりします。その明るさを昼間感じることが目の感覚に優れる人、ホモサピエンスにとってより自然です。人工照明は不自然です。オフィスワーカーの人は、あるいは、外で過ごす時間の少ない家の時間が多い人は、昼間、このような不自然な明かりの元で生活していることになります。こうした環境の変化は、果たして私たちの健康にどのように影響があるか?それは立証されていませんが、精神的な影響も考慮すると全く何もないという事はないはずです。
 部屋の床、壁は何が最適でしょうか?確かにコンクリートは断熱性がいいかもしれません。木造住宅と比べて、そうした人工的な材料によって失われることはないでしょうか?なぜ、木造のフローリングを人工的な材料で構成されるカーペットで埋めるのでしょうか?それはやわらかいからですか?人は自然の産物です。人工とは相いれない関係性にあります。人を心地よくするのは自然です。自然ベースでいかに住環境を構築するかは、大切な命題です。フローリングの床は、非常に掃除が容易です。電気エネルギー、埃が過剰に舞うフィルター交換が必要な掃除機は必ずしもいりません。ほうきとちりとりで簡易的に掃除する事ができます。確かにフローリングは固い。でも、それを我慢すれば、より部屋の設計はシンプルになり掃除を含めて管理しやすくなります。
 住環境の中で昼夜の環境を毎日より自然に感じることができたら、生活を共にする夫婦、親子に日々、どのような変化をもたらすでしょうか?子供が生まれて、成長する段階で、人工物に多く知らずにさらされて成長した場合とどのような変化が生じるでしょうか?天井が光透過性であれば、空全体を見渡すことができます。紫外線照射による肌の損傷の問題が出ます。それは人工的なシェルター、可動式の蓋によって高価な様式で解消することが賢明でしょうか?もっと、自然で合理的なソリューションはないでしょうか?例えば、住居の天井を周りの木々で覆うのはどうでしょうか?ツタよりもいいでしょう。それで部分的に太陽光を遮ることはどうでしょうか?あるいは、家の一室だけそのような自然を天井から感じることができる特別な部屋を設けることもできます。現代の住居は夜、閉鎖空間、天井により、星空を感じながら生活する事を阻みます。もし、常に部屋にいて、上を見上げたら、満天の星空が広がっているような住環境では、あなたの日々の感覚をどのように変えるでしょうか?あなたと配偶者、子供の関係性にどのような変化をもたらすでしょうか?部屋にいながら、毎日の日の出、日の入りを自然な形で視野として感じることができるような住環境なら、あなたの毎日をどのように感覚的に変えるでしょうか?こうした事を実現するためには、日本のどこに住居を設けるべきでしょうか?こうした設計は伴侶と何年もかけて真剣に議論すべきことではないでしょうか?毎日、様相の異なる日の出、日の入り、雲の分布、天気が良い時には漸次的に変わる空の色、星空を家にいながら常時感じることができたら、夫婦という関係性が一般的により魅力的になる可能性があります。子どもの成長がより自然に則し、特に感覚系、神経系がより健全になるので、家族生活の満足度、幸福度が向上します。それは、現代が抱える人口減少問題とも密接に関連します。
 トイレ。確かに災害時には問題になります。しかし、排せつは本当に便器で下水環境に接続された様式でするのが正解でしょうか?あなた男性は、外で尿意を強く感じた時、それをアスファルトにするか、水環境にするか、植物上にするか、あるいは民家の壁にするか、どれを選択するでしょうか?その中に実は、便器でするよりもより合理的な選択肢はないでしょうか?トイレは大便を含めて便器上でするもの。それに疑う余地はないでしょうか?排せつ環境をどのように整えるかも、住環境を整えるうえで大切な命題です。必ず、現代で構築されたトイレ以外の解答が存在します。それは、災害時、ライフラインが止まったときに鮮明化するでしょう。
 現代のパッケージ化された住環境は、最も基本的な生活に関わるものであり、人々の健康の基礎にあるものです。それをより適正に見直すことで根本的な現代が抱えるジレンマを解決する重要な手立てとなりえます。特に、あなたと配偶者、子どもとの関係性にも関わることです。人口減少問題、地方創生とも関わる事です。住居において、現代的な、人工的な技術に何を頼り、その中でどのように自然な状況を生物の数十億年の歴史を踏まえた上で確保するか?住居についても生活を共にする家族とそれについて長期的に真剣に議論しなければなりません。その夫婦の関係性がより永続的になれば、離婚率が当然低下しますから、今問題となっているひとり親世帯の生活苦の問題も改善します。


<人間の二足歩行/走行潜在性と健康>
 最近の私の運動能力の向上の傾きが以前の運動習慣時とは異なります。自分の中で様々な運動の中で実感としてわかるレベルの運動能力の向上です。私は健康ガイドラインのほぼすべての項目を実施していますから、これは、健康ガイドラインが全てではなくてもおおよそ正しいという事の何よりの証明です。人間、ホモサピエンスの二足歩行/走行の能力は地球上にいる生物の中でその潜在性はトップである。特に持久力においては。私が足に障害を抱えることとリハビリテーション後の運動能力の向上、現在の運動能力を総合的に考えると、ホモサピエンスの歩行、走行能力の高い潜在性を実感します。現在は、自動車が普及していますので、歩道を含めて道路の多くはアスファルトで舗装されています。裸足で歩くには硬い事と、昼間、鉄板のように高温になることから、靴が必要です。従って、日常的に長い時間、距離、歩行、走行運動を不可欠なものとして組み入れる場合には、靴の維持管理についても考える必要があります。靴は、どういう風にメンテナンスするのがいいでしょうか?例えば、コインランドリーに一つ靴洗浄専用の機械がありますが、それを利用するの簡易的でいいでしょうか?靴をメンテナンスするもっといい方法があります。それは、汚れてもいいタオルを用意して、それを水で湿らせて、自分の細やかな動きができる手でタオルで特に汚れが残りやすいつま先部分をふくことです。外側も含めて。汚れがとれているかの評価は見た目と、見えない部分については臭いで判断します。しっかり洗浄ができていれば、臭いがほとんど出なくなります。視覚、触覚、嗅覚を使った靴の衛生状態、材料の維持管理です。この洗い方は機械で大雑把に洗浄するよりも靴のダメージを考えると非常にいいと思います。靴は、歩く、走る運動を非常に長くする場合において、カギとなる道具なので、この上なくしっかりメンテナンスして、常に身近に置いておくということです。手と水とタオルで靴をメンテナンスすると非常に近くで靴を見ることになるので、靴の日々の状態の正確な評価にも貢献します。例えば、私がずっと履いている靴のこのように水、タオル、手でメンテナンスする時に気づいた事。特に左の底の減り方の偏りがひどい。外側が異常に削れている。従って、左足を靴を履いて着地したときに常に足首が外側に折れて、ぐらぐらした状態になっているから、インソール、かかとの繊維の摩耗も右足に比べて非常に激しい。確実にこのままいけば、左の靴が故障して履けなくなる。それが目に見えてわかるということです。その原因はおそらく着地の悪さにあると思います。左は高校の時にサッカーで腰を痛めたことが動きの悪さの原因かもしれません。ストレッチをしていても、長距離運動をしていても、中殿筋がない右に比べて、左足の運動能力が低い事がわかります。そうしたことが足の着地から、足の筋力、腰の状態まで全て出ている。それが靴のメンテナンスをしてわかったということです。従って、靴をしっかり自分の眼、手を使って維持管理する事は、自分の歩行、走行の癖に気づくことにもつながります。元々、人間の祖先は、数百万年にもわたる進化のほとんどの期間、裸足で歩き、走っていました。従って、裸足で歩くのが自然であり、それに合うように出来上がっています。多くの人があまりにも靴は当たり前すぎる道具なので気づいていない非常に重要な問題です。足の裏の感覚は非常に重要です。一つとして便通(腸の蠕動運動)に関係がある可能性が私が実施した限りある。色んな介入を同時にしているので評価は難しいですが、それでも裸足で歩くようになってから便の出方が少し変わった気がします。足裏、足つぼマッサージがありますが、わざわざする必要はなくて、裸足で外をあるけばいい。思っている以上に何らかの効果がある可能性がある。服による上半身の感覚器の鈍りと同様に、靴、靴下はクッション性が強ければ強いほど、足裏から中枢神経系へ伝達する信号を歪めている可能性があります。しかしながら、舗装された歩道をずっと裸足で歩くわけにはいかないので、靴、靴下をカバンに入れて持ち歩くなど日常で工夫しながら少しずつ裸足で歩く練習です。特に発達期である子供です。ケガするリスクよりもずっと靴で歩くリスクの方が明らかに大きい。それぞれが大けがしないようなリスク低減の工夫して、子どもに外で裸足で歩く練習をさせなければならない。中枢神経系のツボのような信号以外にも、裸足で歩くとわかりますが、足の裏は靴の底と違って平らなので、着地に靴で偏りがあれば、それが正しく矯正されます。私のケースでいえば、左足の後ろの外側が大きく削れていて、外側に傾く着地となるので、それが裸足で歩くことで矯正されます。裸足で歩いた後、靴下をはいて、その傾いた靴で歩くと、明らかに左足の着地が外に傾いていることがわかる。このような感覚は靴を履いている時にはなかったことです。この章では人間の二足歩行/走行についてですが、二足ということは、二つの足裏に全体重が集中し、特に走っている場合には、位置エネルギーが飛び跳ねることでプラスされた状態で片足着地ですから、一つの足裏に大きな力、ストレスが集中します。裸足になればなおさらそうです。それに耐えうるようにホモサピエンスは進化してきましたから、足裏の土踏まずの部分を除いたコの字型の部分の組織は全身の中で一番強いです。細胞の接着構造の中で特に密着性の高いデスモソームの構造が普通の皮膚とは機械的強度という意味ではレベルが違う可能性が高いです。裸足で歩くというと、ガラスなどがあり危ないとありますが、ガラスも石英(SiO2)なので、石とは変わりないです。人工物質で鋭利性が問題になるだけです。大きければ眼に見えるので気づきます。小さなガラス程度であれば、足ふまず、指以外のコの字型の部分で踏んでも出血すらしないです。組織が未熟な子供でも同じでしょう。子どもは体が軽く柔軟で転ぶことができるので、異常に鋭利なストレスがかかった時には転倒することで、あるいは柔らかく動きで、組織で吸収することで分散できるかもしれない。子どもの野生児としての能力を引き出すためには多少は危険と想定されることも経験させないといけない。その一番は、「裸足で外を歩かせる」ということです。草原が一番いいけど、草原も硬い茎が立っていることがあることと、大きなガラスが見えにくいことからリスクがないとはいえません。しかし、現在の先住民の生活の一定の回帰という観点で考慮が足りないテクノロジーのみで子どもを育てると大変なことになる。子どもは夏前後、夏の昼間は上半身裸、裸足で外で一定時間、定期的に運動をさせないといけない。汗をかいたら、綺麗な水で、それこそ安価なミネラルウォータを水筒に入れて、冷たい水で軽く手の平で水を含ませて、水資源の無駄遣いがないように考慮しながら軽い水浴びです。皮膚に冷たい水がつくと特に暑い昼間は気持ちいい。それは感覚器が現代常識という客観性で弱められていない子どものほうがわかります。果たして電車で子供がじっと母親、父親に止まって抱かれているときと、外でこのように過ごすとき、どっちがストレスフルだろうか?その結果は比較実験するまでもなくわかります。歩く、走る能力は人間、ホモサピエンスたらしめる能力であり、非常に重要です。その意義は体の健康問題だけに留まらず、今までの歴史をかえりみること、地球の持続可能性にも関わります。歩くだけでも、足の条件を裸足、靴を履かずに靴下のみ、靴下をはかずに靴、靴下をはいて靴など条件を様々に変えられる。今では特に運動を目的に歩くときには靴下をはいて靴の条件が当たり前になって、疑う余地もありませんが、その先入観、固定観念を払拭して条件を変えたときには、あなたの世界観が変わる。ほとんど人がいない時間帯、道で男性で上半身裸で、裸足で、下はノーパンの短パンの軽装で歩いてみてください。もうそろそろ秋がふかまりそれをするには寒さでしんどい時期になりますが。体の感覚器が裸を前提に作られているという事はよくわかると思います。風が肌に触れる感覚が服で大分歪められていることに気づくはずです。言葉では表現できない感覚的な違いもあります。進化の過程で衣類、靴は遺伝子、細胞レベルで考慮されていません。元々、狩猟採取の人類が非常に長く続いた時代は、女性は子育てがありますから、静的に過ごしていたと考えられていますが、男性は野ばらを狩りの為に裸足、上半身裸で動き回っていた。そうした生活を想定すると、現代社会の中で完全に合わせることはできませんが、先住民生活の回帰を全くしないという事は何らかのリスクがあっても不思議ではありません。しかも、現在は靴、靴下、何枚も衣類を身に着けた上で、室内で空調が効いた状態で、動かない生活を仕事中、休みの日も続ける。このような今までの生物の歴史の観点からして逸脱した生活をして、健康を何とか人の力で構築しようというのは本質的に無理があります。元来「風の子」である子供も、安全性の為かほとんど平日に外で見ることもなくなりました。家でゲーム三昧でしょうか?それとも座って勉強しているのでしょうか?これは危険な兆候です。警鐘の為の鐘がいくつあっても足りません、
 自分の足を使って移動する事のデメリットは1km当たりの時間が12分程度かかることです。移動の時間が距離あたり車、自転車と比べて圧倒的に遅くなる。しかし、事故の加害になるリスクはほとんどない。駐車、駐輪の煩わしさがない。どんな細い道も選択できる。信号パターンも走る、歩くを信号が見えた時点で調整することで信号待ちを回避することができる。階段を上る能力が高ければ、横断に歩道橋を使うことができる。重い荷物を持つときには上半身、下半身を自然に鍛えられる。気になったところ、どこでも寄りたい放題。駐車場、駐輪場の有無は関係ない。人と一緒に歩くときには、会話を存分に楽しみながら移動ができる。自分の街の隅々まで知ることができる。こうした事が全て実現し、かつ歩くことそのものが健康と正の相関がある。下半身の循環が上がることで、全身の血のめぐりが良くなる。全身の細胞に適正に栄養が運ばれる。筋肉、骨、脂肪などの内分泌器官などを含めた全身の臓器、脳の相互物質交換が健全に行われるようになり、全身の健康状態が顕著に向上する。運動するので、食事、水が美味しくなる。飲み物を水(ミネラルウォーター)にすれば、水を飲むたびに口腔が綺麗になる。こうした足を使った運動はホモサピエンスにとって一番自然なことだから、自然と体全体が整う。歩くと走る。別の体の動かし方をするので、両方するとよりいい。裸足と靴、歩く条件を変える、歩くペースを変える。走るときには、ゆっくり走る、スプリントで速く走るなどのペースを変える。こうした着地の条件を含めた歩く、走るのバリエーションを日常生活の中で組み入れていく。健康ガイドラインでは運動以外に最適な筋肉のメンテナンスを定義する。それはすなわち全身ストレッチ、臥位筋緩和。全身の筋肉をストレッチによって随意、意識的に曲げ伸ばしする。寝た状態で随意筋である骨格筋の力を意識的に抜く。走る、歩くという積極的な運動での疲れ、筋肉のメンテナンスの為にそれぞれ臥位筋緩和、全身ストレッチを入れる。こういうことを全て日常生活でしようと思うと、フルタイムの学校(学業)、仕事(就労)であっては実現不可能です。従って、フルタイムのこれらの活動自体がすでにこのガイドラインで定義する理想的な健康状態を実現するために無理があるということになる。私が実施する限り、フルタイムの仕事をしていては時間的に無理です。さらに、配偶者、子どもがいて、生活の干渉要素があればもっと実現不可能です。現代の産業構造が先住民の生活習慣から外挿すると逸脱し、根底から歪んでいて、それが文明が構築されてからおおよそ世界共通で長く継続していて、その逸脱性が今現在さらに高まっている以上、さらには、このような警鐘を鳴らす人が非常に限定的である以上、もっといえば、警鐘を鳴らしたうえで自分自身の生活を先住民の生活の回帰の観点で実際に改変している人はより限られる以上、正への回帰への問題は、世界的に解決するのが非常に難しい問題です。


<生活の知恵と健康>
 生活費月10-13万というと生活保護のラインの最低の生活レベルです。今の私の生活水準です。非常に生活するのに困難な、厳しいレベルです。健康格差という言葉がありますが、通常は、経済的に豊かな人は健康的な食事、運動機会があり、顕性疾患にかかったとしても適正な医療を受けられるという意味で、低中所得国の人や日本でも私を含めて相対的貧困状態にある人が健康状態がお金を含めた生活環境が恵まれず、健康状態を維持しにくい事を示します。しかしながら、経済的に余裕がある医療環境が整った高所得国の人々が決して健康が保証されているわけではありません。現代の生活が人工物に囲まれ、歪んでいる中で、あらゆる人が不健康の波にのまれやすい状態です。医療も生活習慣病を代表とする現代病がある事を前提でエコシステムが構築されています。こうした状況において実質的に健康格差とは、病気になった時に治療が受けられるかどうかの有無であり、元々の健康状態を差を示すものではありません。この健康ガイドラインで明記するように、健康が現代の産業と正面衝突する側面が明確にある事から、逆に経済レベルが低い人でも工夫して生活を構築すれば、顕性の病気に罹患せず、健康的な生活を送ることが可能です。しかし、一番大切な食費以外にも、衣類、住居費、社会保険、学費、光熱費、通信費など様々な費用がかかり、特に一人親世帯で子育てを実現する場合において、健康的な生活を実現しながら、収入と費用の均衡状態を維持していくためには以下のような生活の知恵が必要です。
 まず、家計簿をちゃんとつけて数字で生活費を管理する事。これが最も基本的な事です。基本、子どもの登下校、母親の出退勤、食材の買い物などを含めて移動は全て自分の足、すなわち、徒歩です。これが健康的な生活と経費を抑制する最も筋のよい選択です。1時間を超える長い移動でも自分の足で移動できるように、親、子どもの歩行能力を段階的に生活習慣の中で高めていくことが大切になります。衣類は、できるだけ軽装にすることです。薄着でも耐えられるように、家の中で肌を無理のない範囲で露出するなど、少しずつ寒さに慣れることで、冬季でも衣類を減らすことができます。最低限の衣類で運用するという事です。これも健康的な生活と経費抑制を両立する大切な取り組みです。運動習慣がある中で、肌の露出を上げることは、熱交換が円滑になり、段階的に身体の状態を認識しながら(鼻水がでないか、喉が痛くならないか、くしゃみはでないか)、寒さに慣れることで、風邪をこじらせにくい身体となります。そのためには歩行による日常的な運動が必要です。少し家でトレーニングによって筋肉をつけることも有効です。住居費は、すでに安いところに住んでいると思いますが、新たに選ぶ機会があるなら、歩行能力があれば、駅から近い便利なところを選ぶ必要性もなくなるので、不便で需要の低い安いアパートを選択する事が可能になります。このように長い距離歩けるという事は、健康的になる以外に、生活の自由度が上がり、交通費、住宅費など経費が抑えられるという効果もあります。学費も、母親としたら子にしっかり教育を受けさせたいという思いはあると思いますが、今の世の中、インターネット、生成系AIなど自発的に勉強できる環境は整っているので、学業に対して積極的でない人が高等教育を受ける場合と、学業に対して積極的な人が経済的な理由で高等教育を受けられない場合を比較した場合、学ぶ意欲があって、既存の学校以外の手段で勉強する術を身に着けた場合は、後者のほうが結果的に高い学力がつく環境となっています。一つの懸念は、労働市場が学歴で絶対的にみる傾向が今でも続いていることから、良い条件で労働できないという事はありますが、健康で学力があれば、良い労働条件で働ける可能性も以前よりは高いと推定されます。光熱費は、部屋の管理を工夫すれば、特に電気代に関しては抑制できます。部屋を玄関を開けて、部屋の窓のカーテン、窓を全開にして、常に外の空気が部屋中を通るようにしておけば、夏場でも風が入るので、上半身裸で熱交換のよい身体条件でいれば、それでも昼間は暑いですが、慣れれば耐えられる暑さです。どうしても暑い場合は、体に冷たい水を少し塗れば涼しくなります。女性の場合は上半身裸は難しいですが、下着を恥ずかしくないものにして工夫して肌の露出度を上げることで、夏場の電気代のかかるエアコン代を節約できます。昼間のどうしても暑い時間帯だけ使うという選択肢もあります。あるいは寝苦しい夜だけ使うという選択肢もあります。暑さに体を慣らすという事も健康の上で大事で、熱中症の危険もありますが、部屋をしっかりあけて風を通して、肌の露出が高い状態にあり、定期的に冷たい水を塗り、こまめに水分補給すれば、慣れれば問題ないです。床の条件も、木のフローリングにして、絨毯などはひかず、よりシンプルにします。家族3人を想定したとき、トイレットペーパーは経費になります。物価上昇もあり、市場価格は6ロール400円以上はします。トイレットペーパーの使用を劇的に減らせるか、不必要にします。繰り返しになりますが、人間の排泄物(大便、尿)は自分の体から出たものであり、同じ生物である食べ物の残渣(残りかす)や細菌、細菌の死骸、水分などです。細菌が出す物質が臭いがあるので臭いですが、水と生物の集まりです。こうした水と生物は、原理的に同じ生物、細胞の集まりである人の表皮と相性がいいです。トイレットペーパー、紙よりです。従って、あなたが腸、膀胱から出した排泄物は、あなたの指と原理的に相性がいいです。あなたの指は組織として柔らかいです。柔軟な動きができます。ゆえに、組織学的に繊細な肛門、陰部などを拭くときには、硬さのある紙よりも、あなたの指の方が組織を損傷させることはありません。あなたの肛門、陰部と共に指先には感覚があります。その感覚により、肛門の便の残渣、組織の状態を慣れてくれば確かめることができます。小さな傷があれば、痛みによってその部位と程度を特定することができます。指は人差し指、中指、薬指がありますから、自由に動かせるこれらの3本を使って肛門の状態をウォシュレットによる水と指を絡ませながら非常に綺麗に拭くことは可能です。唯一の障害は、便を指で揺れるのが不快という先入観のみです。指は水で洗えばすぐに綺麗にできます。その時に石鹸、ハンドソープは必要ありません。肛門の水気を拭くのに、少しのトイレットペーパーを使い、本当に綺麗になっているかを確かめてもいいです。その肛門の水気が気にならなければ、トイレットペーパーは必要ありません。トイレットペーパーは、災害時、オイルショック時に供給が滞ると、多くの人がパニックになって買いだめをする最も不可欠な、エッセンシャルな日常用品の一つですが、あなたがトイレットペーパーフリーのトイレを実現する事で、こうした制限、危機を抜本的に回避する事が可能になります。災害時、避難所では仮説トイレ負荷が高まり、非常にトイレ内の衛生状態が悪くなった時には、外で土をスコップで掘り、大便を自然の中ですることも可能です。その時にペットボトルに水を持ち、その水と指で肛門を拭くスキルがあれば、紙のごみもでません、大便を土で埋め、木の枝かなんかで便をした印を残せば、それで非常時の対応として事足ります。何の問題もありません。人工物と大量の流されていない便が堆積した非常に衛生状態の悪いトイレで、ストレスを感じながら用をたす必要はありません。トイレットペーパーフリー、節約する生活は生活に苦しむあなたの経費節減として一つ大切な項目ですが、これを生命科学の考え方でもって科学的合理性を持って実現する事は、肛門、陰部の健康状態を上げるだけではなく、緊急時のトイレ問題対しても強靭になります。正しい事をすれば、多くの利点を同時に達成する事ができます。前述した様に、木のフローリングのみにすることで、掃除が楽になります。重い、フィルター、ゴミ交換が必要な電気代のかかる掃除機を都度出さなくても、ほうきと塵取りがあれば、すぐにフローリングは掃除することができます。小さなごみはとれにくいですが、ほうきを縦にする、水を撒いてタオルで拭いてとるなど工夫すれば細かいゴミも除去する事が可能です。すぐに手軽に掃除できるという事は、掃除の機会が増えますから、部屋が原理的に綺麗な状態で保たれやすいです。同時に、玄関を少し開け、ベランダのカーテン、窓を部屋にいるときに全開にすることで、ベランダとの接続性がよくなります。ベランダも素足で出れるように床を綺麗にし、ベランダに何の障害もなくすぐに出入りできるようにします。アルミホイル、コーヒーフィルターなどの消耗品は繰り返し使う事が可能です。外で大気、太陽触れ乾燥させれば、衛生的に使いまわすことが可能です。使った回数分、こうした消耗品のランニングコスト、経費を節減できます。食器、包丁、まな板などの調理関連のものも湿気の多い、風の通らない、太陽もあたらない調理場に常時置くのではなく、水洗いしたら、ベランダの風邪、太陽が当たるところに置きます。まな板は下着同様に洗濯ばさみで多点で挟んで干すことが可能です。こうしたベランダを使った食器の運用により洗う負荷を減らすことができるため、油汚れであっても、手が荒れやすい食器洗剤を使う必要性がなくなります。水洗いのみで運用可能です。手の感触と鼻による臭いの確認によって、食器が綺麗に洗えているかどうかの確認が可能です。取れにくいよごれは、たわしなど固い材料で洗えば除去できます。これで食器洗剤の経費をなくすことができます。手を洗うのも、石鹸、ボディーソープは必要ありません。お風呂もシャンプー、リンス、ボディーソープは必要ありません。髪の毛がパサつきますが、そうなっても問題ないように女性であっても可能な限り、髪の毛を短くします。
 このように生活を工夫していけば、生活費のおおよそは食費に回すことが可能になります。あなたの収入から生活費の上限があるでしょうから、その金額と相談して、上述した様に人、生物、人工物の特徴をしっかり理解して、食費以外の経費を正しくゼロに近づけることで、食費に多く回せるようにします。それで、あなた、子どもの心身の健康、成長を確保します。あなたの地域に生鮮商品が多くあるスーパーマーケットがありますが、家からおおよそ15分以内で到着する程度の距離である半径1km以内には仮に1件しかなくても、1時間と少しかかる距離である5km圏内にすると面積は25倍になりますから、10件程度に少なくとも増加します。そうすると色んなスーパーを選べるようになり、散歩、運動、子どもへの教育もかねて、子どもと共に自分の足で歩いて、スーパーマーケットを回り、飲食品と質、価格の特徴を分析のもとでの最適な買い物を交通費なしで、かつ自分の心身の健康のベースを支える歩行運動によって実現する事ができます。周りの街を細かくみながら、子どもと会話しながら、時には重い荷物を長い時間持つことになります。元々、狩猟採取時代には飢えや食品を取る大変さが今以上にありますから、その時代を想像しながら、自分が生きていくために必要な過不足ない良い食べ物を良い条件で手に入れる大変さを汗をかきながら、子どもと共に共有していくことです。これは子どもへの教育としてとても大切なことです。


<トイレ(排泄)、下水と健康>
  日本史を振り返れば、江戸時代に夏場に江戸(現在の東京)で一流行で数万人、コレラで死亡することがあります。その原因は人の便、尿などの排泄物と当時の人工物を含むゴミが街中に堆積していたことが挙げられます。こういう事があるから、人から出る便、尿は汚染されたもの、あるいは人に害を及ぼすものという先入観があります。今では西アフリカなどでは、現在の電子機器とこうした人の排泄物が堆積している地域もあり、それによる人への害は子供を含め計り知れません。私の立場からすると適切な排泄物の処理、下水の処理をもっと適切に考えるうえで、この先入観は部分的には払拭しないといけません。日本は災害の多い地域です。一番多いのは線状降水帯による洪水、あるいは、台風の被害によるもので、山火事は湿潤のためアメリカなどに比べて少ないです。それで避難所に待機することになると、その期間が長くなればなるほど、排泄物の処理、すなわちトイレの問題がでます。音楽の野外ライブなどでも同様ですが、人が集まった地域に少ない仮設トイレしかないと、特に大便がたまったときに、その負荷に仮設トイレは耐えられなくなり、仮設トイレの臭いなどを含めた衛生状態は非常に悪くなります。日本はトイレが公衆便所も含めて非常に綺麗で、下水も綺麗な循環性のある水資源が豊富な事から整っています。また、現在ではコンビニエンスストアの貢献もあり、外出時にも公衆便所以外の緊急のトイレの場所が至る所にあります。日本人は特に女性はこのトイレの問題に対して非常に敏感です。だからこそ、災害時、そのトイレのシステムが少しでも崩れると非常に生活の上で大きなストレスを抱えることになります。これは、非常に子どもの教育を含めて、健康管理、環境問題、あるいはシステムの維持管理の負荷の観点で大切なので、この健康ガイドラインレベル4で章を設けて記述します。これから述べる事の一般人の解釈が一つ間違えると、それはそれで社会問題になるので、私としても書き方、表現を非常に慎重に気を付ける必要があります。
  ヒトの尿と便というのは人の腸や膀胱にあるものですから、単体としては不要なものを排出してるという事もありますが、そんなに汚いものではありません。例えば、自分の便を少し触ることを毎日続けても、多分、あなたの手の皮膚に湿疹ができたり、皮が乾燥してめくれたりすることはありません。それをそのまま口、もっといえば目にいれると問題ですが、ちゃんと手を洗ってそういう事に気を付ければ、皮膚に問題が出ることはまずありません。しかし、食器を洗う洗剤の場合はそうはいきません。私の鍛えられた皮膚でも指先が乾燥し、時に表皮の一部がめくれることあります。洗剤は「綺麗なもの」、特に大便は「汚いもの」というのは生物学全体を見渡して、人の組織への影響を考えると先入観、固定観念です。これは健康と持続可能性の問題を解決するためには払拭する必要がある。生命科学の学者の中で人を含めた生物の便を使って研究している人は多くいますから、その人たちの便に対する衛生の考え方は、多分、今の私にかなり近いと思います。もっと冷静に便を見ているということです。では、なぜ、江戸時代や今の低中所得国で、人の集中的な排泄物によって深刻な衛生問題が生じているのでしょうか?その大きな理由は「人工物と混じって、大量に存在するから」です。便、尿は人工物と非常に相性が悪い。便が残って、衛生問題が出るのは、パンツなど人工物でできた衣類についたままになるからです。あるいは、トイレが便の負荷が高まったときに衛生状態が非常に悪くなり、そうではなくても一般的に臭いのは、便器などが人工物だからです。臭い、衛生問題の元となる細菌叢が非常に歪んでしまいます。おそらく、1mくらいの草で覆われたところに大便をしてみたらわかると思います。それでも量は確かに問題になりますが、便をしたときの臭いが便器とは全然違うはずです。植物、土壌、便という組み合わせは相性がいい。植物学者の中にはウィキペディアにも書かれていますが、便、尿はリンなどの栄養素が多すぎて、植物を逆に枯らしてしまう、土壌のバランスを不可逆に改変してしまうので、外でみだりに糞便、尿をすることは推奨されないと主張する人がいます。これに関して私は少なくとも2つの論点を持っています。一つは、植物学者が実験として動物、人の尿、便がどのように植物の生育に影響を与えるかを調べた実験環境がそもそもその辺に自然に強く生育する非常に環境相互作用が強い草原と同じ耐性を持つ条件ですか?というのがある。そんな集中的ではない人の便、尿くらいで植物が枯れるようなら、日常の乾燥なども含めた環境変化に耐えられるわけもないというのが私の一つ目の意見。もう一つは、そもそもトイレですることがゼロリスクですか?というのがある。例えば、河川敷を歩いていると、運動施設が整えられていて、決まって仮設トイレが用意されています。これは素晴らしい事でしょうか?仮設トイレに貯まった便、尿は「誰が」交換するのでしょうか?交換する人はゼロリスクで交換できるでしょうか?その方々の気持ち、負担を考えた、想像したことがあるでしょうか?そうまでして非常に広い草原がある川辺に(男性用の)仮設トイレは必要でしょうか?少なくとも感覚が優れた男性の子どもは、水がそのまま流れる川ではなくて、比較的丈の長い草の部分で、それぞれ場所を決めないで分散的に尿くらいはしたらいいのではないでしょうか?子供は臭くて、狭い仮設トイレよりも、そうして大空のもと自然の植物と対話しながら、泌尿器を露出して、尿を適度の放尿する位置を変えながら、済ませたほうが、すごく気持ちよいし、勉強になるのではないでしょうか?どの場所に尿をすべきかを真剣に考えるということです。当然、民家の塀はダメです。用水路もダメです。川、湖もダメです。海ならどうでしょうか?草原でも人が頻繁に通るところはためらいがあります。河川敷のような非常に草木が豊富なところで、分散的にトイレをすることは、果たして間違いでしょうか?間違いというなら、トイレの負荷を考えたことがあるでしょうか?仮設トイレに限らず、バキュームカー、あるいは下水設備を整備して、維持管理する事の負荷、大変さは考慮されているでしょうか?時々、事故で、下水管に人が転落して、その強烈な硫黄臭で人命を落すことがある。トイレは、綺麗にされていますが、掃除している人が常にいる事を考慮すると、決してその負荷がゼロではありません。確かに東京、大阪など草木に対して人が圧倒的に多いところでは、トイレ、下水設備は、過去の江戸でコレラが流行した教訓も踏まえると絶対的に必要です。あるいは、アメリカのような乾燥した地域が多く、植物が相対的に少ないところでは、やはりトイレが必要でしょう。日本は湿潤ですから、草木が非常に多いです。ほとんどが郊外、田舎です。そういった地域に東京、大阪などの都市部と同様に地球を何周もできる長さの下水配管を整備して、それを維持管理して、都会と同じような負荷のトイレを整備する必要があるでしょうか?トイレの他の選択肢を常識として定義する必要はないでしょうか?トイレをする場所、その良し悪しをもっとバランスを考えて真剣に考えるということです。子どもの教育でも大人と同様にそれについて考えさせるのです。草木への放尿が植物が枯れるのでだめと否定するのは、トイレそのものがそもそも負荷、リスクがあるという前提が考慮されていない証拠です。仮設トイレなども含めてトイレは負荷ですし、トイレの部材が人工物ですから、当然、自然である植物に分散的にするよりもはるかにその負荷は大きくなり、衛生上悪くなりやすいです。不健全な細菌叢のバランスが生じやすいです。江戸のコレラ、低中所得国の都市の排泄物問題は、特に現在に関しては、現在の電気、電子機器と排泄物が大量に混じっている事が問題です。トイレが整っていない低中所得国でも、都市部の人口集中を緩和させ、人を郊外に移し、トイレを場所を決めずに分散的にちゃんと草木に考えてすれば、そんなに深刻な衛生問題にならないはずです。例えば、北海道の大雪山では頂上付近で登山者の排泄物の問題が出ているといいます。これは、いくつかの論点がある。一つとして、大便、女性が尿をしたときのティッシュがそのまま捨てられていること。これはダメです。排泄物ではなくティッシュがだめです。上の章で述べた様に大便をするにしても、携帯した水と指で大便した後、肛門周りを綺麗に拭くスキルがあれば、このようなティッシュの問題は回避できます。もう一つは、量です。大雪山の山頂付近はおそらく森林限界を超えていますから、それほど草木が豊富ではなく、あってもまだらで丈が短いです。こうした岩肌を含む場所に大量の登山者が無作為に便、尿をすると当然、環境は吸収しきれませんから、衛生問題が出ます。従って、自然環境の中で排尿、排便をするときにはよく考えないといけない。その意味で、全面的に自然環境への排尿、排便を肯定しているわけでは決してありません。しかしながら、ティッシュなど持ち帰り、あるいは使わず、ゴミを出さず、正しく草木に分散的にトイレをすることができたら、下水設備、回収設備が整ったトイレの負荷も減るし、トイレのマテリアル自身、あるいは排泄物が集まる部分のデザインをもっと植物、土関与で工夫することにもつながります。野外で正しくトイレをするスキルがそれぞれの人に見につくと、災害時、仮設トイレが非常に衛生状態が悪くなった時、うまくトイレができない子供も含めて、より衛生的なトイレに誘導することができます。例えば、緊急時ですから、避難所の周りの自然の部分を探して、スコップで土を掘って、適度な地中に自分の便をすることが女性でもできるでしょう。それで、テッシュを使わずに水と指で肛門を拭く。トイレをしたところには土で埋めた後、木の枝を立てるなど何か便をした目印を自然のマテリアルで残せればマナーとして合格点です。便が大量に存在する臭いのきつい人工物と混じった仮設トイレよりも確実にこちらの方が衛生的です。トイレに関する知識、技術、経験です。川辺を歩いていて、日本人で子供も含めて、野外排尿している人はほとんどいないので、草木の非常に多いところでも尿意を感じたときにはみんな我慢していると思う。倫理上良くないと思っている。こうした倫理感は日本人のマナーとして大切にすべきですが、下水配管の老朽化、維持管理、再構築費用、災害時の対応など様々な観点を考えると、トイレについては、見直す余地のある問題で、この問題を適正に解決する道を見つけることは、広義には、それぞれの人が持つイデオロギーの改変を含めて健康と持続可能性の問題にも一定交差します。


<輸送機器業界との調和>
 健康ガイドラインレベル1から特に3で明示した様に、健康ガイドラインで一番大切な項目は運動と栄養であり、運動の中でも自分の足を使った自然な運動である歩行、走行に重点を置いています。おそらくすでに、臨床現場では患者を継続的に見ている中で、高齢になっても日常的に歩く習慣がある人は、顕性疾患にかかりにくいという感覚はあると思います。この歩行という習慣に一番直接的に負の関わりがあるのが人を機械によって運搬する輸送機器業界です。自動車だけではありません。自転車、バイク、電車、船、バス、新幹線、リニアモーターカー、飛行機全てです。日本は特に自動車産業への産業依存度が高いので、真剣に考えないといけない産業です。一つとしての調和の為の肯定的な立場では、ヒトではなくてモノを運ぶ、すなわち物流の輸送機器の産業の付加価値を上げるという事です。特に健康に関わるところでは、水、その他飲料物、食料です。すでに成熟度が高い業界です。細かいアイデアでは歩行、走行の運動機会と自動車の使用を紐づけるものは筆頭著者の頭の中に存在しますが、健康という所を真に考える時には少し無理があるのでここでは明示しません。ただ、そうした案もあるという事は明言します。画期的な案は健康と関連するところで今のところありませんが、考え方として提示できることがあります。多様性に関わるところです。私のように完全に自動車を手放すのではなくて、自動車を所有しながら、適切に歩行、走行を使った運動機会を見つけるという中庸の考え方です。全く画期的ではなく普通の事です。すでにそのような人はたくさんいる。自動車を所有するか否かが、自動車産業の売り上げに大きく関わるので、この中庸の考え方を一定支持すれば、健康ガイドラインは大きく自動車産業を縮小させないということになります。


<製薬業界との調和>
 この健康ガイドラインの取り組みの絶対的な目標は人々の心身の健康ですから、顕性疾患を薬物治療によって治癒させることを目的で研究開発生産される製薬業界は、この取り組みに対してマイナスの影響を受けやすい業界です。医療とも関わりが当然深く、調和を考えるべき重要性の極めて高い業界です。今の立場、知能の状態で提案できることは実は多くありますが、これは健康ガイドラインなので健康と直接関連のあるところでの調和の記述のみに留めます。健康ガイドラインの立場としては、少なくとも慢性期医療で筆頭筆者が経験しているように薬があることが前提で体が適応して恒常性を築くというシステムにすることを明確に支持しません。最終的には患者が寛解に向かうプロセスで薬物に頼らず、病院からの独立性も一定高めて、健康的な生活習慣を築けるようにすべきであるという主張です。どうしても慢性期に恒常的に薬物に頼らないといけないケースがあるとすれば、その薬物はヒト、生物由来、あるいは水からできた材料で構成すべきであるという補償的な立ち位置を取ります。縮小が余儀なくされる状況で、それを補償する製薬業界が転化しやすい産業の創出を知恵を出して考える中で、このガイドラインでは健康に関わるところで具体的な案を捻出することに挑戦します。
 MRIで脳を観察する時に、造影剤という感度を上げる物質を投与してシグナル増強し、分析感度を上げる方法がありますが、このコンセプトを細胞外小胞分離の分析プロセスに水平展開し、創意を加えます。筆頭著者が今までの経緯の中で関わってきた細胞種特異的薬物送達システムがあります。薬の薬効を上げ、副作用を少なくする目的で特定の細胞種に送達させることを目的で考案したものであり、この技術は抹消させずに大切にしたいと個人的には考えていますし、それで製薬業界の産業を守り、調和に貢献できればよいと考えていますが、この技術を医療に対して健康な人の分析に利用できる可能性がある細胞外小胞分離の分析プロセスの感度向上のために使う事ができます。細胞外小胞の放出プロセスはいくつかありますが、その放出を促す転写因子を細胞外小胞に内包して、特定の細胞種に届くようなシステムにします。そうするとその細胞種から出る細胞外小胞が優位に増えますから、液体生検で分析したときの特定の細胞種の分析感度を選択的に上げることができます。予め、健康状態を分析する時に分析する細胞種を決定するという事です。例えば、心臓の機能を集中的に見たいとしたときには、採決する前に心筋細胞の細胞外小胞が多く出るようにその細胞種に特異的に送達する細胞外小胞を送達させます。多く出るということは量によってもタグ付け(マーキング)できるようになるので、分析の技術的負荷が顕著に小さくなる可能性があり、細胞外小胞分離の実現可能性を顕著に引き上げることになります。この感度向上の細胞種は複数あってもいいわけです。そうすれば一回の採決で任意の複数の細胞種の情報を選択的に取ることができます。コストの問題がいずれにしてもありますが、すでに顕性疾患がある人の場合には、疾患部の細胞種の情報を取りたいという事があるでしょうから、こちらのほうが健康とは直接的な関係はありませんが、需要が強くありコストバランスを構築しやすいです。


<自然-不自然-人工軸の定義の限界>
 自然、不自然、人工軸において、ヒト国際社会として、それぞれの国の社会として、個人としてどのようなアイデンティティー(存在意義)、イデオロギー(観念体系)、価値観、使命感で持って、どの立ち位置を取るかは人の健康と地球持続可能性を考える上で重要です。地球の持続可能性は生物としての40億年の営みによる軌跡の逸脱性という観点での持続可能性であり、地球が消滅するか否かというと別の問題となります。すなわち、仮に人工物を今のペースで作り続けたとしても地球は消滅しないという観点から、持続とは「何の持続なのか?」を問う、その定義を明確にする余地が存在します。一方で、人の健康という観点でいうと、自然、不自然、人工軸の中での立ち位置を考える事は私の健康ガイドラインをレベル1から4まで理解すれば、その重要性が顕在化します。しかしながら、自然、不自然、人工のそれぞれの3つの概念がどういったものかを明確に定義する事は容易ではありません。物理的に限界があります。最後の章では安易に自然とは熱力学第二法則に従う事としました。もう少し、熱力学第二法則の本質について理解し、考え直す余地があります。結論からいうと熱力学第二法則、すなわち系として状態数が多い方向に誘導されるという現象は、その系が閉じた系でしか成立しません。その系に対して外部からエネルギー的な干渉がある場合、すなわち、その系が非平衡な場合、次の状態がより確率的に低くなるような場合も存在しうるという事です。最後の章では生物の一種であるアリの運動は乱雑性に欠けるといいましたが、この根源を辿ると、アリは生物から構成される餌によりエネルギーを定期的にとり、運動を可能にしています。すなわち、アリの運動は外部からのエネルギー的な干渉がある開放的な系であり、熱力学第二法則の閉じた系での、平衡状態での熱力学の前提が成立しないという事になり、そうした非乱雑性の運動は物理的に矛盾しないという帰結になります。生物ではなくても、物質は太陽光、マグマなど様々なエネルギーに暴露されており、その分布のプロセスは外部からのエネルギー的な干渉があり、開けた系である限り、熱力学第二法則から逸脱性を持ちます。従って、熱力学第二法則とは完全に閉じた系である必要があり、実空間、現実と照らし合わせれば、そうした閉じた系と「なりうる」のは特別な実験条件を人工的に構築する場合を除いては、最大、究極の巨視である全宇宙空間のみとなります。この仮説、推定に従えば、宇宙全体として熱力学第二法則は成立している可能性があるけど、その中の細分化された系は、ほとんどの場合、外部干渉があり、一定の非乱雑性を持つ、すなわち確率の低い状態への駆動圧が存在するという事です。この考えに従えば、人工というのが人が生み出したものとしたとしても、自然、不自然の定義の境界を明確に示せなくなります。そうではなく、非生物、生物、ヒトとしたほうがいいのか?という再定義の検討の必要性が出てきます。ネイチャーポジティブという言葉があり、これは自然への回帰、あるいは自然にとって利点がある事という意味ですが、そもそも自然とは何という定義なくして、ヒト社会を自然に寄せる事、何が自然にとって利点があるのかを明確に、具体的に評価する事はできません。自然、不自然、人工という区分があると仮に定義しましたが、なんとなく自然と人工という2極論で考えられ、その間に不自然というのがあるという中庸が欠けている気がします。自然から人工までを連続体として考え、その間に不自然と置く場合、その変化の基準をどのように定めるかが一つの重要な論点となります。不自然を温室効果ガスの環境排出のように人が自然に対して巨視的に関与したものとしてみるか、そうではなく、地球で生じた生物の発生、進化という所をすでに不自然と置くかという問いがあります。前者の主張が多いと推定されますが、すでに生物で起こったことを不自然とみる場合、非生物の中にヒト社会が回帰すべきヒントがあるかもしれないという視点を生み出すという点で価値があります。すなわち、生物を自然と定義する場合、生物多様性の維持というように生物に対して直接的に利点がある事のみの観点となりますが、生物の自然な発生や進化の背景として非生物的な環境が生物に与えた影響をより精細にみるという観点が生物を人工と逆の極値として定義しない場合に生まれます。生物を既に不自然と見なし、その背後にもっと自然に近い、言い換えると宇宙全体の巨視的な全物質の分布の軌跡に近い系がある事に視点が向く設定は一定の意義があります。人為的という人が意識的に行った行為の結果生じた物質的な分布を人工とした場合、その人が文明を築く前の、あるいはサルが人に進化する前の、どの(進化の)地点か議論の余地がありますが、生物が数十億年かけて営なんできた進化のプロセスに大きく逸脱しないことが自然の原点と定義していいか?という問題提起です。生物自体を連続体のどの地点に置くかによらず、最終的な目標をどこに置くかを明確化し、合意形成を図ることは重要です。この健康ガイドラインでは人の真の意味での心身の健康を原点に置き、人は生物の部分集合であるので、生物が数十億年かけて構築してきた生命システムに調和する事こそが心身の健康の重要な素因であるという明確な指針があります。一方で、現代産業、あるいは脳の嗜好と衝突し、それら現代社会で大切にされているものと調和を共生、共感、多様性、動的平衡性などの多元性でもって実現していく事も同様に重要な素因であり、これを具体的に考える事がこの健康ガイドラインレベル4です。数十億年かけて構築してきた生命システムに調和するように生活習慣、産業構造を回帰的に改変したときに見える未来像は、生物多様性の維持という重要な環境問題を同時に解決する潜在性があります。なぜなら、人が本質的に心身が健康になる環境は、同様に他の生物にとっても健康になるという事を本質的に意味するからです。生物は同じシステム上に乗る以上、共通点があるという考え方です。人に特定の選択を促すとき、本質的には後の状態が自分にとって快楽、充実、経済的に豊かなど価値のあるものである条件にすることが重要です。団体を含めて長期的利益に基づいて行動する事の難しさが露呈しているため、直後の短期的な結果がそれぞれの人にとって確率高く利益がある条件設定にすることが重要ですが、心身の健康という価値がこれからの人々にとってより高くなればなるほど、その行動に伴うジレンマ、リスク、負荷という壁を乗り越える駆動力になるため、その実現の為の行動を促すためには心身の健康というブランド価値を形成する必要があります。端的にいえば、健康は当たり前の普通の事という認識ではそれにともなう負の要因を超える事はできません。総体的、大枠の観点として、人が定住し始めてから心身の健康状態が悪くなった可能性があるという事は生活様式の変化と現代の生活習慣病の病因を含めて推定する事ができます。この心身の健康状態の悪化を埋め合わせるために構築された事が、そこから現代に至るまで繁栄の裏で抱えてきた様々なジレンマの源泉という考え方もでき、それはすなわち、それ以前の生活習慣の回帰によって心身の健康状態を上げることができたら、こうしたジレンマの源泉の基礎を健康的に再構築する機会が生まれうることを意味します。こうしたジレンマは歴史的経緯でもってより強靭に負の遺産となっているケースもあることから複雑な困難性を伴いますが、今まで何千年も原理的に解決不可能だったことの前提が変わる潜在性が真の意味での人類の心身の健康の実現に内在する可能性を見出すことができます。この点を考慮に含めると、やはり、心身の健康の実現を具体的プロセスでもって様々な側面、スケール、難易度で定義する事は、現代の人類に課された最も重要な問題と確信する勇気を与えます。


<健康と地球持続可能性の絆> 
 健康とは何ですか?顕性の病気に罹患しないことが健康でしょうか?スマートフォンの画面ばかり見ている未成年は顕性疾患が特になくても健康と言えるでしょうか?細胞、その集まりである生物が絶え間なく紡いできた命の軌跡を考慮することなくして健康は定義できません。健康をより厳密に考えるためには物理学の力が必要です。物理学の第一原理とは素粒子の分布です。時間とは、素粒子の分布がより確率的に高いほうに遷移していく不可逆的な過程です。アリの運動は、ブラウン運動とは逸脱します。これは、すなわち、確率的に低い方向に動く可能性であり、熱力学第二法則に逸脱性を持ちます。熱力学第二法則に従うことが自然だとすれば、アリの動きは不自然です。しかし、これは人工ではありません。健康とは、自然、不自然のはざまにあります。人工の領域にはありません。人工は、ただ、健康を歪めるだけのものです。健康とは地球が生物のいわば、遺伝子の自己複製獲得という不自然の40億年の歴史の中での流れに従う事です。人の身体はその流れに同調するように、その都合で構築されてきました。わかりやすい例を紹介しましょう。近代の日本の近視率は非常に高いです。私の近視です。近くを見るという事は人間のデザインに組み込まれていません。今まで、生物は近くの特定の複雑な対象物を長時間凝視する場面は生活の上で一度も存在しませんでした。従って、近くの字、画像、映像を長時間凝視する事は、当然、眼の健康に対して壊滅的な結果をもたらします。それに対する補償効果は存在しません。これは大なり小なり、人の身体のあらゆる部位に当てはまります。従って、人の健康を考える事は、すなわち、細胞の40億年の歴史、類人猿、ヒト族、ホモサピエンスの歴史を見直すことでしか定義できないのです。これは過言ではありません。もし、人工でそれを構築したいのであれば、40億年に対して、10000倍の賢さで対峙したとしても、40万年擁します。ほんの数百年、もっといえば、数十年で解決しようというのは明らかに生物の絶え間ない営みに対する尊厳の欠如です。
 この自然、不自然、人工という軸で現在の叡智でもって総体的に人の心身の健康について考えた時、私たちは重要な気づきを得ることになります。不自然、自然を定義することにより、人、生物、地球において最も大切なものが実は合理的に両立可能であるという事を、今までの人の脳の過ちを超えて、脳はメタ認知として上位から理解する事が可能になります。これが真の意味で、ネイチャーポジティブ、すなわち、人工から不自然、自然への回帰です。
 自然を考える上で第一原理である素粒子の分布についての最も簡略的な、しかし、本質的な説明を最も簡潔的な様式で施します。その簡略性のためにボース粒子、フェルミ粒子の2分論で宇宙の統一性について定義します。ボース粒子とフェルミ粒子は回転の単位の細かさ(1,1/2)が違うということですが、フェルミ粒子が目に見える実態があり、ボース粒子はそれがないというのはおそらく違います。そもそもずっとスケールを小さくしていったときにはそうした実在論の境界の有無もあいまいになるはずです。「そこに確かにある」を問うことは意味がないかもしれません。ただ、感覚としてグラフ理論でいうエッジ(線)、ノード(点)をそれぞれ光、ヒッグス粒子などのボース粒子を線、電子などのフェルミ粒子を点と考えるとなんとなく私たちの直感と重なるかもしれません。仮にそうします。世の中の不変則は確率としました。それは、宇宙が空間的に膨張することで次の状態が常に拡張し、その状態の数が(器として)増えていくからであると考えました。ビックバンから状態数は増え続けているのです。それを大元で駆動するのが実は数学的には確率論であり、確率が高い方向に誘導されるというものです。水の配管に分岐があり、一方が顕著に太ければ、水分子はそちらに多く流れるという事です。その逆はありません。例えば、造幣された年が全て異なる100枚の10円玉があるとします。それが全て表、裏になる状態の数はたった2パターンしかありませんが、50枚ずつ裏表になるパターンは造幣された年が異なるという一つ一つの10円玉に特異性を与えるとそのパターンは約10の29乗になります。すなわち、エントロピーの法則とは乱雑性ですから、50枚、50枚の最も均一な、乱雑なパターンに誘導されるというのは、その根底にあるのはこの状態の数、すなわち確率なのです。したがって、エントロピー増大の熱力学第二法則とはその根底には確率論があるのです。多くのパターンがある方向への系全体への駆動圧が絶え間なく続いています。それが時間です。逆はありません。宇宙の膨張もおそらくその確率論に支配されます。空間そのものが可変因子。十円玉という玉に着目すると、フェルミ粒子的です。しかし、それぞれの玉には「関係性」があり、その関係性とは引き付ける力であり、それを駆動するのがボース粒子です。だから、点と点の架け橋の元である線であり、この点においてグラフ理論の例えが厳密ではなくても直感的に整合します。
 世の中に存在する人工的なもののほとんどが、分子レベルまで微視的に考え、完成体としての巨視までのスケールでみるとその分布の自然発生的な確率はほぼゼロですから、いわば上の十円玉のケースでいえば、すべてのコインを表に向けるような行為にほかなりません。それを生み出すのは人の脳ですから、人の脳はいわば自然の法則から逸脱する能力を「誰かから」与えられたといえます。これは、下述するように神経細胞に細胞種が分化した時点でその運命線が開かれたという考え方もできますが、もっと以前、すなわち、遺伝子が合成されたときに、遺伝子自体が自己複製能を獲得したことそのものが、結果として生物としてあり得ないことを起す起点であったという考え方もできます。どの時点で、このいわば異常が地球上で起こったのかということを評価、断定する事そのものがこのテーマと同様に科学的に非常に興味深いことです。こうして、人の脳が自然の法則から逸脱するとは、人は意識的に太い道よりも、細いいばらの道を選ぶということです。人に進化するもっと前です。上述した様に遺伝子の地点と考える事もできますが、消化器に神経系が発達したのが起源かもしれません。その奇跡の産物が実は、今の地球を運命づけたといえます。神経細胞への進化こそが分岐点なのです。 神経細胞がよりそれ(人工的な産物を生み出すこと)を決定づけたという考え方もできるでしょう。 
 神経細胞は生物に「嗜好(好き)」という感覚を与えました。「より美味しいものを食べたい」「環境を整えて楽をしたい」「誰か人を支配したい」「お酒、たばこで気持ちよくなりたい」「恋愛をしたい、友情を築きたい」。これらは体の細胞の機能ではありません。心拍が速くなったり連動はしますが、「そうしたい」という欲求は神経細胞の産物です。例えば、あなたが昔の親友と久しぶりにあい居酒屋で盛り上がったとしましょう。二次会にはスナックを選択しました。そうした一夜は何物にも代えがたいものですが、その時にはあなたの体の「しんどい」という悲鳴はどこ吹く風となっているでしょう。そんなことは意識しません。飲みまくります。家に帰ったらトイレで嘔吐します。次の日には頭が痛くなります。それはいわば、体の細胞の遺伝子の集団的な破壊です。寿命を短くします。不健康になります。すなわち、不健康の源泉は、脳の嗜好にあるのです。しかし、この嗜好が現在のすべての産業、人間関係性の礎です。人は脳がある限り、万人がこの嗜好から逃れられません。それが時に苦悩になるのです。脳が無い生物はこのような社会関係性を構築しません。社会性があるアリにも脳があります。アリの動きをみていればわかります。その動きは餌を探すだけの一直線のものでは決してありませんが、明らかにブラウン運動のような分子運動とは異なります。これが現代を支配していますから、避けようのない現代社会において、地球の持続可能性を考えるとは、人の脳、もっといえば、その脳のこうしたいという欲、嗜好とどう調和しながら実現するかを考えることです。現代社会と自然との間の調律を創作することです。この健康ガイドラインレベル4の最も重要なテーマは、その調律をどのように構築するかを考えることです。これは人の健康と地球の持続可能性を両立させる世の中で最も重要な命題ですから、当然、その対象はレベル4となります。私自身が今、その問題と自分の心身を使って対峙しているわけです。その脳の嗜好は人の体を不健康にしますから、それを踏まえた上で人の健康を考えることは、すなわち、今述べたように持続可能性と強力な接点を持つのです。この健康ガイドラインを誰よりも誠実に強い思いを持って実施する私はすでに一歩先がより多様になる自然に導かれているといえます。山中先生の毎日のジョギングのその1歩はノーベル賞よりもずっと尊いのです。山中先生だけではなく、Ciraは名誉所長の影響もあってジョギング、運動する人が多いので、研究活動として非常に健全に回っている可能性がありますが、それでも研究自体がいくらでも時間を食う、搾取する活動なので、研究自体が健康問題と照らし合わせたときに労働と同様に決して全肯定されるものではありません。ヒトの心身全体でいえば、脳が不自然を駆動し、体が自然と接続しています。したがって、今までよりもそれぞれの人が体に耳を傾け、脳の嗜好を制御、抑制することこそが実は地球の持続可能性とつながるのです。それがネイチャーポジティブ(自然に向かう正軌道への回帰)です。
 現代社会を全て否定しているわけでは決してありません。今考えると考慮が足りない中でも人の汗に感謝しながら、それで生じた負の遺産を全世界の人の叡智でもって、正の遺産に変えることが一つの目的です。健康ガイドラインのレベル4は、こうした最もスケールが大きな視点を含めて考えた健康問題と自然、不自然とは対極にある人工にあふれた、それを前提で精緻に構成された世界的な産業構造とどのように折り合いをつけて、正への回帰を駆動していくかを頭を悩ませて考えていくことです。心身の健康を実現することは、現代人において最も根源的な問題です。それはレベル3までで真剣に考えます。レベル4は、それをすることは現代の世界産業構造と正面衝突にすることになる事実から、では、どのようにそうした向かい合うベクトルの中で、別次元の軸を入れて、これからの軌跡として正への回帰を現実的に、作り物の世界ではなく、私を含めそれを真剣に考える者が先導して、実現していくかを考えるものです。


<医療との調和>
  上述したように健康ガイドラインレベル4は主に健康ガイドラインレベル3までで述べる今までの生物の進化の軌跡に調和するという事を基軸にした心身の健康について、具体的な健康習慣というプロセスの提示を主軸において、徹底的に追究、追求しく中で生じる課題と具体的に向き合うものです。ガイドラインなので当然、読者が日々の生活習慣の中で実施できるようにしなければならない。現代社会において、生物多様性の喪失が問題視され、その回復の重要性が長く、広く謳われ、それは別の観点でみれば、社会全体の構造が生物の進化の軌跡から逸脱していることに他ならない。健康ガイドラインレベル3までで明示されたように心身の健康の本質を追究すればするほど、自動的に生物の進化の過程の上に乗り、定住生活以前の古来の生活に回帰する事に気づきます。これは理論的にも合理性があります。現代の社会産業構造はそうした古来の生活への回帰を元にした生活への回帰を促し、仮にそれが実現したとすると基板から崩壊し、この取り組み自体が社会産業構造と正面衝突する事になることは必然です。人々の心身の健康こそが最も大切な資産であり、その実現の為の変化が生じたときには、必ずジレンマが伴います。今まで生物は40億年の間、様々な環境変化を経験し、変化、適応してきました。そこで生じたジレンマは、一定の揺らぎの中で安定を実現する恒常性、動的平衡、多くの異なる種を共存させて変化に強い構造にする多様性、互いに足りないところを補償しあう共生、特定の種が環境全体に及ぼす結果に応じて構造全体の在り方を調整するフィードバックループ、時には絶滅という形で失敗しながらも必死に適応してきた適応拡散などで対峙してきました。こうしたジレンマの解決の時間軸は今の産業の変化と照らし合わせて考えると圧倒的に長期的でした。これを踏まえた上で、心身の健康を実現するという目的の健康ガイドラインと現代社会産業構造との根本的な対立というジレンマとの解消を考える必要性があります。健康ガイドラインは健康を扱うものなので、医療と関連性が深く、同時に現代の医療と真っ向から衝突する事になります。筆頭の著者である私の今までの様々な思いを一定含有させた時、本質的に対立する産業はほとんど全てといえますが、その中でも医療とのこの本質的な課題と向き合う事の重要性は最も高いと位置づけています。この健康ガイドラインレベル4で述べたようにエネルギーとは分布であり、比喩のように聞こえるかもしれないが、日本、国際社会を駆動するためには同様にエネルギーが必要であり、そのエネルギーの源泉が分布、もっと具体的にはその偏りであれば、様々なジレンマを抱えながらも、人々の心身が健康になるように変化を促していくためには、それを具現化させるためには、個人的な思いを含めて一定の偏りによるパワーが必要です。人の場合、そのパワーの源泉は感情であり、特別な感情は、その人のこだわりなどで定義されるアイデンティティー、イデオロギーの偏りによって生まれます。上述したジレンマは人々の不安を惹起する為、その不安を払拭するために対立構造を正直に明記し、具体的な指針でもってそのジレンマの解消に努めなければなりません。、その指針が上述した様に恒常性、多様性、共生、評価改善、失敗再起です。人が発達した脳がある事を考えると、共生のところに共感という概念も加わります。こうしたジレンマの解決の為の指針を多元的に定義しつつ、動かすためにはエネルギーが必要ですから、そのエネルギーの為には人々の感情を動かす必要があり、少なくとも一定の偏向が必要です。その偏向とは具体的には、一つとして選択と集中です。私はそれを明確に「医療」としています。ジレンマを解決するためには一つとして共生、共感が必要であり、その共感が一方で社会構造を動かす原動力となる感情を惹起させます。端的にいえば、健康ガイドラインは本質的に現代病が蔓延していることを前提にした医療構造とは対立しますが、それを提案する少なくとも「私」はあなた方、医療従事者を誰よりも大切に思っているという事を伝える事です。表面上の関係改善、共感の為の迎合だけではなく、一時的に対立したとしても明確に、正直に問題提起し、相手にとって長期的視点で見たときに良い事は何なのかを考え、駆逐するのではなく全体の発展を考える事が真の意味での共生、共感です。生物の絶滅という失敗を繰り返してきました。私も時々、お酒を飲みすぎて、感情に任せて稚拙な文章を書き、フィードバックして文章を書き直すこともそのプロセス自体が失敗ではなくて、意義があると思っています。冷静に淡々と文章を書いているだけでは社会を動かすためのパワーを得ることはできません。感情的なことだけではなく、共生、共感のためには具体的な中身が必要です。対立して縮小を余儀なくされる産業構造に対して、どう新たな産業構造を構築していくのか?その具体的な案を提示する必要があり、それが中身です。以下にその中身について記述します。
 健康ガイドラインレベル3で重要な提言を行いました。エリートランナーの走行フォームの評価、改善の為に骨格の動きを人工知能の推論を利用しながら非侵襲で靴の中まで分析するシステムの提案です。今は、人工知能の社会的流れがあり、具体的にデータセンターも各地に整備されつつあります。その中で人工知能をこれからの社会に利点があるように生かしたいと考えている人は多く、そのソリューションを提示する事の重要性は高いです。心身の健康を実現しながら、現代テクノロジーの一つの極致である人工知能を生かし、すなわち共生する事は最も重要なテーマです。この観点からこの段落で述べる案の重要性は少なくとも現状では一番高いです。さらには、健康ガイドラインレベル3で最も詳細に具体的に記述する運動の中の歩行、走行と直接的に関連することです。この具体案に対する偏りは非常に大きいです。映像に基づいて人々の歩行、走行のフォームを非侵襲で数字でもって分析できるようにすると映像は人がマニュアルで撮影することなくしても、衛星で自動的に撮影する技術がすでにあるため、人工知能に基づく分析システムと同期させれば、常時、人の歩行、走行フォームを分析できます。当然、プライバシーの問題があるので登録された人のみの分析になります。こうしたシステムは、人の正しい歩行、走行を実現するための医療の特別な産業(歩行走行科、歩行走行外来、歩行走行専門病院など)を生み出すことができます。それだけではなく、データの蓄積に伴い歩行、走行フォーム自体が病気の前兆を示すバイオマーカーになる可能性もあります。関節の疾患などは間違いなくリンクします。患者のフォームを理学療法士、医師が事前に分析して、来院したときにフォームの矯正を具体的に実行し、それが治療となります。その人が正しく歩行する、走行する事が間違いなく健康の実現と関係性をもつからです。それは医療が最終的に目指すべきところの一つです。歩行、走行のデータを個人が見れることによって、歩行走行の実施者の特別な価値をもたらします。その歩行、走行データは研究テーマ、靴/靴下/服の設計指針になります。歩行走行データを安全に監視(セキュリティー)、データの受け渡し,設備(衛星、人工知能システムなど)の運用管理の必要性があります。これらの需要は全て新たな産業の基盤となり、これらの精緻なつながりが経済エコシステムとなり、歩行、走行という心身の健康において現代産業と対立する最も大切な生活習慣との共生となります。
 もう一つの軸は、分析です。健康ガイドラインレベル3で明らかになるように、運動の特に歩行、走行で価値の高い情報が出せるのは筆頭著者自身が歩行、走行の介入を実際に行い、一定の結果を明確に分析できるからです。運動は運動能力という客観的な指標(例えば、距離時間など)で評価が可能だからです。一方でもう一つ大切な栄養は、健康ガイドラインで特別な偏りがあって、理論的にも大切である果物を筆頭著者が食べても、その結果、体の中の上体が具体的にどうなっているかの結果はわかりません。従って、重要な情報が出てこないということになります。その原因は分析能力の不足にあります。顕性疾患がある人だけではなく、健常者を含めたすべての人が安全に検査、分析する手法を徹底的に発展させることが、健康ガイドラインと医療との調和であり、その分析に伴う経済エコシステムを作ることが縮小した産業に対する埋め合わせです。より具体的にここで提案できる事としては、細胞外小胞分離による液体生検の分析です。人から採取した液体の中の物質と由来(どの細胞種にあったものか?など)を分析できるようになれば、血液や尿から体の中の状態の分析精度はかなり高くなります。それができる可能性があるのが、細胞外小胞分離です。当然、様々な困難性を伴いますが、これは健康ガイドラインと医療、産業との共生のためであり、実現を目指すための明確な価値、意義がある事です。もう一つはMRIガイド集束超音波装置の開発です。経頭蓋だけではありません。MRIと超音波装置の高性能化です。これらの測定は、原理的に身体への負荷が少ないので健常者に対する分析手法として優れます。これらの装置が組み合わせることも含めて高性能化すると、例えば脳の状態をより精細に分析する事ができるようになるので、頭脳主体で動く現代産業の価値観と高く調和します。生理学的な、臨床医療としての利点も当然あります。健康の状態がその人を傷つけることなく分析できるようになると、一気に健康ガイドラインの内容の質があがります。それは私の運動の分析を外挿すると間違いありません。
 現代医療、これからの医療の極致として、iPS細胞によって細胞の若さをリセットして原理的に若返らせるという事が考えられますが、そもそも人の寿命の上限がおおよそ120年というのはおそらく局所的ではなくて、体全体で決定され、しかも、遺伝子を含めた全体のシステムとして今までの生物の進化の軌跡が刻印された結果であるという推定もできます。この観点に立てば、臓器移植や細胞を入れ替えて若返らせるということは、今までの生物、類人猿、ヒト族の進化を理解して見直すことなくしては、非常に危険な結果をもたらす可能性があるという事です。細胞は数十億年前から始まっているので、単一細胞をとっても長い歴史が刻印された産物といえます。従って、原理的に扱いが非常に難しいです。一方で、例えば、歯は外側のエナメル質は物質的に決定されています。細胞のように動的ではないです。腸、肺の上皮組織のような回転の速いところを原理的に老人から子供のような若さにすることは生物学的に無理があるし、それを強引にしようとすると大きなリスクが想定されますが、物質的に決まっているところ、すなわち物質回転しない、あるいはそれが非常に長いところは、現代テクノロジーによる介入の余地が大きいです。例えば、歯は入れ替えることができます。私の前歯の一本もそうです。問題なく機能しています。それ以外にも眼がそうです。従って、iPS細胞の初めの臨床応用は眼から始まっています。骨もそうです。歯や眼の健康はガイドラインで定義するように栄養摂取と視覚に関わり健康において重要であり、それに関して考えられることは多くあります。例えば、歯にヒドロゲルから構成されるマウスピースのような材料を作り、表面のフッ素化やヒドロキシアパタイトの合成をより効率的に誘導できるかもしれません。走行、歩行に関わるところでいえば、その運動においてカギを握るアキレス腱に関していえば、踵近くの最も多くの病理がある部分に対して、体外で合成したⅠ型コラーゲン、エラスチンを配向特性を制御しながら注入して、治療、強化する事ができるかもしれません。アキレス腱も代謝活性がサテライト細胞で低く、代謝回転が長いからです。しかも、表皮からアプローチしやすいところにあります。健康と医療との調和を考える時に、現代テクノロジーが直接的に医療的な介入をして人の健康を促進させたいという需要は医療関係の研究者も含めて絶対的にある中で、ここで示せる一つの道筋として、まずは、代謝回転しない、代謝回転が非常に遅くて重要な組織(例えば、アキレス腱の根元)を特定して、体外で人工的な材料、最も言えば人工的な合成技術に依拠せず、iPS細胞技術なども含めてできるだけ生物の自然な材料、合成技術(それに近い技術)を使いながら、治療、機能強化を目指すという指針です。



 

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